このブログが40000アクセスを迎えたときに、記念に仏道についてお話しようと思っていたのですが、のんびりしているうちになんだか時機を逃してしまったので、今回45000アクセスを機に仏の言葉を紹介させてもらおうと思います。
やっぱり涅槃研究所らしいお話もときどきは頑張らないといけません。
今日のお話は「怨み(うらみ)」についてです。
怨み、なんて書くとどぎつくて、何事?って思われそうですが、私たちは日々人との関わりの中で生きているあいだに、ささいなことでも怨みの気持ちは持ってしまったりするものです。
ちょっとした言葉の行き違いでカチンとくる程度のこともありますし、相手の悪意によってひどい目に合う場合、果ては新聞などで報道されるような大きな事件に巻き込まれて。。。
私たちは、他者から不本意な目に合って、相手に対して怨みを持ってしまった場合、どうしたらよいのでしょうか。
初期の経典である『法句経』(ダンマパダ)に次のような記述があります。
中村元さんの翻訳です。
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。
かれは、われから強奪した」という思いをいだく人には、
怨みはついに息(や)むことがない。
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。
かれは、われから強奪した」という思いをいだかない人には、
ついに怨みは息む。
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みをもってしたならば、
ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。
これは永遠の真理である。
「われらはこの世において死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。
このことわりを他の人々は知っていない。
しかし、人々がこのことわりを知れば、争いはしずまる。他者からイヤな目に合って、「あんなことされた」、「こんな目にあった」、と思っているあいだは、怨みの気持ちがあります。
イヤな目にあったとしても、気にしないならば、怨みの気持ちはありません。
怨みを持つと、相手に仕返ししたい、相手のことも害してやりたいという気持ちが生まれます。
そしてもし私が相手から害された怨みを晴らすために、相手を害したなら、相手もまた私に対して怨みを持ち、怨みと報復の連鎖が終わりなく続くでしょう。
怨みの気持ちを捨ててこそ、心安らかに過ごせます。
西洋にも「メメント・モリ(死を想え)」という言葉がありますが、この法句経でも「われらはこの世において死ぬはずのものである」という言葉が出てきました。
一日の終わりに私たちの一日を振り返ってみると、一日というのはあっという間です。
そしてそのあっという間の一日が積み重なって、一週間・一年・十年・五十年。。。
きっと私たちの一生というものも、思うよりずっと早く終わってしまいそうです。
そしてそれは、私を害した相手の一生も同じことです。
私が怨みのために相手を害さなくても、相手もいずれ必ず滅します。
他者を怨んでいるときの気分はまったく楽しいものではありませんから、貴重な私たちの時間を、他者を怨むために費やすのは、あまりにもったいないことです。
というお話です。
でも、とてもヒドイ目にあったときに、上の言葉だけで怨みの気持ちがスッとなくなる、とはまだ私には思えません。
これについては、これからも考えていかなければなりません。
ただ、「怨みに報いるに怨みをもってしたならば、ついに怨みの息むことがない。」という言葉には、私はよく助けられています。
何かイヤな目に合っても、この言葉をふっと頭に浮かべて、とりあえず仕返しするのはやめておこう、と自分を律するようこころがけています。
さて。
今日のお写真はこないだのゆみちゃんとのお出かけのときに撮ってもらった傘さし写真です。
場所は伏見稲荷の門の前です。

傘というのが、おんなのこ度アップアイテムだと発見できて、すっかりお気に入りの一枚です。
雨傘・長靴をゲットして、雨の日のお出かけも楽しめるようにしたいですし、これからの季節のお出かけのために日傘も手に入れたいなぁと考えているところです。